ケネディ家との関係はどのようなものでしたか?
ロバート・ケネディには1961年ジョン・F・ケネディの大統領選挙のときにアンパサダーホテルで初めてあって、挨拶をしただけです。
偶然にもそこで彼は1968年に暗殺されてしまうのですけどね。
それで、その後、私がドクターを取るために通っていたUSCに奥さんのエセルと演説をしに来ると言うので、学長のトピングが私にホストとして相手をしてくれないかと依頼してきたんだ。それで私は快諾しだんだよ。
演説のあとね、たくさんの学生たちがサインをもらいに集まって来てね。ケネディ家はリンカンしか運転しないという方針があってね、偶然にも私と同じリンカンで、後が真っ平なんだ、いつでもそこに乗って演説できるようにね。それで学生たちが凄く集まってきたんだよね、彼や私を見るのに。それで、彼は車の上にのって、「こういうときナポレオン・ソロだったらどうする?」と初めて彼が私が仕事でやっている役を知っているんだと思ったんだ。その時なんと答えたかはよく覚えていないけど。
ともかく、彼は「次にワシントンに来たときには是非私たちの家に寄ってください。子供たちがあなたの番組の大ファンなんですよ。」と言ってね。
私も、その時限りの話だと思ったから、「もちろんですよ。」と軽く答えたんだ。ところが、ケネディ家は世界中に触手を張り巡らしているらしく、ある日電話をもらったんだよ。と言うのも、私が「ヴェネチタ事件」の撮影でベニスにワシントン経由で行く情報をもう知っていてね。
もう一度招待をちゃんとされたんで、受けたんだよ。その時、1966年の春から、彼が68年に暗殺されるまで、かなりの頻度で彼の家のゲストだったり、彼のところで行われる行事などに参加していたんだよ。それに、妹のパット・ローフォードとデートしていたこともあったしね、アンクルとは全く関係無いけど。)ともかく、そうやって、彼に会い、彼の葬列乗ることとなったんだ。
葬列は1時にペンステーションを出て、普通4時間くらいなので、5時の、6月だったからまだ十分埋葬できる明るいうちに着く予定だったんだ。ところが、沿線に集まった人々が大変な数でね、それで4時間さらにかかったので、夜の9時ごろの到着になってしまった。ケネディ家が列車が暗くなってから到着し、アーリントン墓地には照明がなにもないことに気づいたときに、キャンドルを用意するしかないと考えたんだ。何千もの人がキャンドルを持って集まった。
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