ロバート・ヴォーンによるスペシャルイントロダクション

 電話は様々な形態をとります。一般的な会話、依頼、注文、ゴシップ、10代の長話、リマインダー、お喋り、などなど。そして一人の人間の人生を変える電話があります。

 1963年の秋、私はカルフォルニアのキャンプ ペンデルトンで、のちにあの不朽の「スタートレック」を制作するジーン・ロデンベリーによる「ルーテナント」を撮影していました。

 MGMスタジオのアレナプロダクションのノーマン・フェルトンが私に電話をしてきて、その夜スタジオに戻ったときに、NBC,アレナ、MGM用にこれから撮影しようとしているパイロット映画の台本を取りに来れるかどうか尋ねました。 その作品のタイトルは「ソロ」で、ノーマンは「ジェームズボンドのテレビ版」になるだろうと言いました。

  私は真夜中ごろにMGMのゲートにつき、台本をピックアップし、そのままゲィリー・ロックウッド(かれがルーテナントの主役でした)の家に行き、そのまま夜をすごし、ほとんど夜明けごろに家に帰りました。私はノーマン・フェルトンの事務所に9時にいくことになっていましたが、その話し合いのための「ソロ」の台本はまだその時点では読んでいませんでした。

私のマルホランド ドライブにある自宅からカルバーシティにあるMGMまで、信号でとまるたびに数ページ読み、ノーマンとの会合の時までには全部目を通しおわりました。彼はそもそもこのプロジェクトは彼とジームズ・ボンドを作り出したイアン・フレミングとの友情から始まったものだと説明しました。

私は間違いなく興味があると言い、彼は私の代理人と話を詰める前にNBCに私が主役をやることの許可をもらうと言いました。そして、それは実行され、パイロットの撮影が1963年11月20日―私の31回目の誕生日とジョン・F・ケネディ大統領暗殺の2日前―始まりました。
 
 番組ははじめ1964年秋、NBCで火曜日の夜に放映されました。最初の反応は複雑なものでした、というのも、批評家たちが放映された現実逃避的な番組を評価する能力に欠けていたからです。アクション・アドベンチャーなのk、パロディーなのか、真面目なのか、おかしいのか、皮肉まじりのものなのか、一体なんなのか?

 その年の終わり頃には、ニールセンの数字にはあまり良くなかったものの、シーズンの新番組人気投票に徐々に現れ出し、ディビット・マッカラムと私は国内のあちこちに登場する依頼に対応するのに大わらわとなり始めました。これらの依頼に私たちは正式に誠実に対応し、1965−66年シーズンまでには番組は国民的ブームとなり、ディビッドと私はテレビ番組の俳優というよりはロックスターのように扱われるようになったのです。

 私たちがカルバーシティから出かけるたびに、アメリカ、アシア、イギリス、ヨーロッパの空港は人が殺到しました。男子学生の社交クラブの会合は番組を見逃さないために変更され、関連する人形、銃、ゲームなどが作られました。ナポレオンとイリヤはすべてのネットワーク特別番組、やバラエィティ、トークショーに出演を求められました。私たちの週末はパレードやカーニバルなどの参加に使われ、私たちのどちらも対応できる量をはるかに超える出演依頼がありました。世界中から何十万通ものファンレターが届きました。ハリウッド外国通信協会は1966年度コールデングローブ賞に世界で最も人気のあるテレビ番組に選びました。

 この番組は私が尊敬し、たくさんの愛情をもつ、偉大な俳優で紳士である二人、ディビッド・マッカラムと番組の真の品格であったレオ・G・キャロル・尊敬すべきアンクルのボス「ミスターウェーバリー」に出会い、ともに仕事をする機会を与えてくれました。それは私にとって、素晴らしい一時であり、「0011ナポレオン・ソロ」でのそれぞれの年を一生大切に思うことでしょう。

              ― ロバート・ヴォーン
                     1986年8月30日

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