ロバート・ヴォーンのスタイルのいかなる分析もその違いと展開を理解しなくてはならない。
一方では彼の演技への純粋な直感的アプローチがあり、もう一方では彼の知的なアプローチがある:その両者の秋田で彼が変動するのは言うまでもない。ヴォーンの直覚的なアプローチは本能とその人物の人格が非常に感情的であることを表している、その瞬間に必要とされるあるジェスチャーと表現のの正確さに関係している。それは主にヴォーンのキャリアの初期のころの情熱的な演技に見られる、彼は決してそれを切り捨てたことはないのだけれど(その直感的なアプローチは「ブラースト」における死のシーンにまさに証明されている)、目の中に現れている魂のような感情に訴える技術によって伝えられる(チェット・グゥイン、リー)。

 この初期の頃のほぼ直感的なアプローチのもっとも価値のある例が、「ゾロ」の一エピソードで、昔のカリフォルニアでオレンジを育てるスペイン系アメリカ農夫に予期せずキャスティングされた作品に見られる。

 「スパークオブリベンジ」は1958年、子供むけ冒険シリーズ「ゾロ」の1エピソードで、そのころのヴォーンの,活力あふれるのTVでの仕事ぶりの典型的なもので、映画よりもいかに豊富な役柄をテレビが提供していたかその象徴的なものでもある。ヴォーンは、その鉛筆のような細い髭をつけて、ミゲロ・ロベルトを演じ、干ばつにであるにも拘わらず自分の所有地の水を誰にも分け与えないことで、ドン・ヒラリオを脅し、ゾロが真犯人を構えるまでヒラリオ殺害の容疑を掛けられる。筋書きはほぼいつもどおりで、西部劇のベテラン監督、ウィリアム・ウィットニーの作品らしくアクション中心でありましたが、ありがたいことにいつものおかしなガルシア軍曹に焦点をあてるのを避けていた。このセッティングに対し、若者の純真さがヴォーンの演技を通じて輝き、そしてそれがとりわけ更なる情熱をその役柄に与えているのである。

 その役ではコミカルなアクションシーンの中に静寂な瞬間が1,2回しかない。(最後の争いのシーンにおいて、ヴォーンは的確に愉しんでいる:彼が彼を陥れた敵をドアの向こうに殴り倒したときの振り向きざまの満足気ないたずらっぽい笑みに注目@)
が、スペイン風アクセントを維持しなくてはならないことをよそに(彼はとても上手く演じている、特に"loaded","do","water","fair",and"happy"などの言葉において)、ヴォーンは実際のところ疑惑を取り除き始めているのである。 これは一つには単に彼の肉体的な外見がもっともらしいことにより、”Cry Tough"におけるラテン系の主役には不適切性に疑問をなげかけている。そういうイメージは影響をあたえる、ミゲルが煙と汗でで汚れた顔で、焼け落ちた家を憂鬱な表情で見詰めているとき、その顔は残り火でユラメく:彼の表現の荘厳さを相殺し、細い口ひげは効果的に映画の月並みなラテン系の人を思わせる。しかし不信を取り除いたのは主に彼の演技の説得力によるものであり、それは彼が如何なるレベルの材料であろうと初期のヴォーンの優秀さを示している。

<ここでは筆者の指摘している場面をわかりやすくするために、,文中に番号を振り対応するようにしました。 原書にはなく、eigomamaによる編集です)

@

A

B

C
D

E
F G
H

I

J

K

L

M


 主な例はドン・ディアゴ(ゾロ)がミゲルに家を再建するためのお金を提供しようとした時の会話に見られる。ミゲルは後を向いて手を暖炉のマントルピースに両手を置き、燃えている丸太に目を落とす。A 驚くほど若いヴォーンの右側からのクロースアップで、ミゲルは彼の悲しみを吐き出す。「私のオレンジの木々...(ヴォーンが少し間を置く)...1本づつ死んでいく。 それは悲しいことだよ、ドン・ディエゴ...(間)...まだ小さな木ぎが死んでいくのをみることは、それを救う術がないんだ」...「皆わかってないんだよ...B(長いポーズ)...木は生きている物なんだよ(ヴォーンが”living thing”に情熱を込めて強く言い、更に早口で続ける)...木の根が水へと伸びていくんだ、そして水を見つけられな時...(ヴォーンが劇的な効果で間をおく)...ゆっくりと死んでいく。」 次に彼のドン・デイエゴに対する応えはさらに早口になる、なぜならミゲロは忍耐を失ってきているから。「俺は俺の木を死なせはしない、不公平だよ...ヴォーンは”not fair"にストレスをおいて言う)...どうにかして俺は水を手に入れる」C

 人はこの農夫の誓いに心をほぼ動かされる。スピーチのリズム、キーワードの強調、ドラマティックな間の取り方の性格な活用はボーンの特徴的な容貌と相まって、十分にハリウッドスターが農夫であると言う事を一時的に受け入れ、ミゲロの立場の絶望を感じ取るののである。
そして脚本はほとんどすぐにバオイオレンスの演出へと戻り、人はまた再び、ヴォーンがヒーローとして有望な将来をアピールしている、颯爽とした映画スターであるのを見る。

 ともかく、ヴォーンの多才さと素質可能性は適した題材であれば、たとえちょっとの瞬間でも、再びここで証明されたのである。

この初期の「ゾロ」はヴォーンがすでに相当な技巧、後に完璧になるであろう様々なシーンで見せる技術、特にうさんくさそうな一瞥が見られ、それら技術に富む俳優であることを立証されている。彼が、ドン・ディエゴとドン・ヒラリオとの会合に静かに入り込んで来たときに、マウリディオとトニオに対し、彼の視線を彼らが暴力を振るわないかチェックするかのように、一人から別の一人へと視線をわたらせ、DE彼らに怯むことなくドン・ヒラリオを睨みつける(激しい怒りを押さえつけた表現F)、顔の表情は変わらぬまま(上に上がった眉)、しかし、後年大胆なヴォーンが(特にチャールズ・クレイのような「罪の報酬」役にみられるようなやるであろう顎を突き出す仕草の代わりに、若きヴォーンは顎を引き、額を突き出し、ドン・ヒラリオを睨みつけ、よってさらに睨みが深まるのであるG。メッセージが伝わったのを確認し、彼は視線をそらしダーツに逃れるように目をやる。しかし、「ヴェネチタ事件」で彼が演じた人物に劇中のウォールが指摘するように、目は怒りで燃え上がっているのである。H

 もう一つの再び使うであろう主なヴォーンの演技の反応は皮肉を込めた不信の笑いであろう、何かに答えようと息を吸いI、そして考えた方が良いと思い、微笑み、頭を垂れるがJ、それはそのことが話し合う価値がないかあるいは言う言葉も無いことであるのをしめすかのような表現である。 この反応で、ここでドン・ディエゴが彼の家が燃えたのを天災として受け入れるように助言すると、この俳優が「ヴェネチタ事件」(ジュリアに拒絶された時の表情)そして「ブリット」(ブリット刑事に批難された時の表情)の演技をしているのを見るのである。更に典型的なのは、ゾロが彼の汚名を晴らせるかもしれないと走り出した時の、熟考している課程を示すかのような目を細める演技である。K

 ヴォーンの肉体的な活力に溢れたかつ感情的な表現にも拘わらず、「スパークオブレベンジ」は芸術作品ではない。
とは言うものの、無意識の詩的な
対称美がこのエピソードにはある、ウィットニー監督に感謝するのだが、エピソードの始めと終わりにヴォーンの印象的なふたコマがあるのだ。ひとつはヴォーンが地面に投げ出され、マウリディオとトニオが樽の水を全部彼に浴びせ彼を泥の中に置き去りにして走り去ったところである。ヴォーンは喪失感を漂わせ、泥となった地面にまるで慈しむかのように両手を広げる、すこしでも失った水を取り戻そうとしているかのようである。L

 二つ目はヴォーンが土砂降りの中誇らしげに膝まつき、両手を広げ、大きな笑顔を浮かべているところであるM。そのイメージは詩的な響を持っている―正に始めのシーンの詩的な裏返しである、そしてゾロの介入により解決したことを示唆するシーンに続くのである。ミゲルは泥の中でびしょ濡れだが、屈辱を受けたあの状態から、それを洗い流すような土砂降りの元でをれを崇め立てるような威厳ある演技
の機会を与えられたのである。 この屈辱的なシーンから勇敢な行為への変換は「荒野の7人」におけるヴォーンの演技により悲劇的に現れてくるのである

 私がこの演技を高く評価していることに対し、ヴォーンは特に喜こび、このように言った「それは懐かしいね、私はそれをナタリー・ウッドとロバート・ワグナーの最初の結婚のときの彼らの家で見たのを覚えているよ。彼らは私に一緒に映画に出て欲しかったんだよ、ジョージ・ハミルトンが結果的に演じた役をね。だからそれを話に彼らの家に行って、ちょうどその夜放送されていた番組を見させないようにしたかったんだけどね。でもそれ以来その番組は見ていないよ。 でも撮影は楽しかったのを覚えているよ。そういう役をもらったことが面白いことだったね。「ノータイムトゥービーヤング」のような反抗的な役でなかったのでとても嬉しかったのを覚えているよ。演技指導の観点から言うと何をやったのかは覚えていないけれど、いつもと違う役をやる機会があって、ともかく、とても幸せだっ。もう一度是非観てみたいね。良い思い出だよ。」

***この章はまだ続きます。***

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Robert Vaughn A Critical Study by John B. Burray

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第6章 ロバート・ヴォーンの様式的な技術