しかしそれは私が恵まれていることに感謝する瞬間でもありました。 私は本当に幸運の星のもとに生まれたと信じています。ええ、もちろん私は健康で体調を保つようにはとても努力しました。でも私は幸運を持っているんです。どのようにかって? このことを考えてみてください。私は「レマゲン鉄橋」と言う映画を、1968年に、当時はまだチェコスロバキアであったところで撮影したんです。ソ連が侵攻したとき、プラハで撮影していたんです。 ある早朝に私が目覚めるとほれるの寝室の窓から大きな戦車が見えました、そして私と他の俳優たちは軟禁状態となったのです。人々が亡くなりました、その時、災難が私たちに及んでもおかしくない状況でした。
 私はなんとかオーストリアに脱出し、映画を完成させることができましたが、どうなっていたかわかりません。そしてチェコスロバキアからの脱出が人生における幸運であったとすれば、愛に関しても幸運であったと言えるでしょう。

私は妻で女優のリンダに、私がミネソタの高校の同窓会に出席したときにあいました、1970年7月27日ミネソタでです、そして4年後の同じ日に結婚しました、
二つの日を別々に覚えなくてもいいようにです。その時私は41歳でした、かなり遅くに落ち着いたことになります。私は自由を満喫していましたが、彼女が私の残りの人生を一緒に過ごしたい女性であることに始めからかなり確信していました。私たちには二人の養子がいます。二人とも私たちの俳優業を継ぐことに興味を示したことはありません。娘のケイトリンは獣医の助手をし、息子のキャシディはアメリカで会社の団体保険を提供しています。
 彼は私に初孫をもたらしてくれました、ロバートと言って、10月のはじめに生まれました。おじいちゃんになれたのはこの上のない喜びです。

 仕事の面では「HUSTLE」は私に新しいプロフィールを与えてくれました。それは5人の、4人の男性と1人の女性からなるチームの話で、詐欺をするのに彼らの才能を合わせて活用する話です。 私は聡明な若い俳優たち、マーク・ウォレンのような、と一緒に仕事をしています。 私は私の役アルバート・ストローラーの背景を作り上げました、この素晴らしい詐欺師の過去をです。もっともらしいと思うのですけどね。まず、彼はアメリカで舞台役者だった、そして後に彼の演技の才能を詐欺のプロそして活かすようになった。この話の演技の部分は私のプロフィールに合うと思うのだけどね、そしてちょっとした私の秘密を教えてあげましょうー私も実はちょっと騙してきたことがあるのです。

 実際のところ、私は数年間騙してきたんです。私がはじめにTVに出演しだした5年間くらいはずっと、アメリカの1950年代です。そのころ作られていたドラマの80パーセントは西部のセットでした。それで私は馬に乗れると信じ込ませたんです、実際は馬のことが怖くて、乗ってなどいられなかったのに、です。 私はカーボーイを演じながら馬に乗るのを学んだんです、ですから1960年「荒野の7人」に出演するころには十分馬に乗れるようになっていたんです。
 でもそれは馬に乗るのが楽しいということを意味しているのではありません。恐怖が若い俳優をハリウッドで役をもらおうと努力することに駆り立てたのですー失敗に対する恐怖ーそして私はまだ恐怖を感じています、少なくとも馬には。馬は馬の心がありますから。 私が若いときに辛うじて難を逃れたことがいくつかあります。
 最悪だったのが、「ボナンザ」という番組で、私が馬にのって、4頭を引っ張っている時に、コントロールを失って、地面に落ちた時ですね。小峡谷でね、それで彼らは私にむかってごう音を立てて向かってきた。そのうちのただの一頭でも私を踏んづけなかったのは奇跡でした。彼らの一撃は間違いなく私を殺していたでしょう。 私の幸運の星はその夜きっとひときわ輝いていたのに違いないと思っています。 
NEXT
     ロバート・ヴォーン


こよなく愛されている「HUSTLE」のこの俳優は幸運の星のもとに生まれ、演じることが宿命と信じている。




 私は1932年にニューヨークで生まれました、そして私が俳優になることは、とても高い可能性というものではなく、不可避のものであったと信じています。

私の両親は両方とも俳優でした、そしてこういった血は私の家系に流れていたのです。母は私が4歳のときに、ハムレットの独白「生きるべきか死ぬべきが。。。」を教えました、そして私がそれが言えるようになったとき、「ロバート、これであなたも役者よ。」と私に言ったのです。私の運命はそれで確定されたのです!その時から、母は私に俳優になること以外のことは考えさせませんでした、そして私はそのことに不満はありませんでした。それに反旗を翻すことなど一度もなかったのです。私の血だからです。

 私のプロとしてのデビューは12歳のときです。1930年、40年台にアメリカでとても人気のあった「テントショー」と呼ばれるものに出演したのです。地方の町や都市にテントを張って、6つの劇を練習してその地域の娯楽として実演するのです。 私は何でも屋でした:ポップコーンを売り、照明を手伝い、テントを張り、そしてたたみました、そしてもちろん演技も。

 人生の中で一度だけ俳優になるつもりはないと考えた時期がありました。10代の終わりころ、ミネソタ大学でジャーナリズムを専攻しました。しかし、1年後、私に向いていないと気づきました。 私はスポーツジャーナリストになろうと努力したんですーでもやはり私向きではなかったんです。 私は役者になるという考えに溺れてすぎていました。

 それで私はカリフォルニアに移り、俳優としてのキャリアがすこしづつ作られていったんです。私は映画「十戒」にエキストラ出演し、TV番組「メディック」という50年代半ばではとても人気のあった番組で主役をもらいました。アブラハム・リンカン大統領が撃たれて亡くなるまで付き添った医師を演じました。

 私のTVでの大成功は「ナポレオン・ソロ」であろうと思います、ディビッド・マッカラムと一緒に1964年から4年間撮影したシリーズです。私は特別諜報員ナポレオン・ソロという役を演じ、その番組は私の人生とキャリアに抜本的な影響をあたえたのです。
 私はそれまでは普通の俳優でしたが、「ナポレオン・ソロ」の後は交渉力のある俳優ーより良い控え室、より良い出演料、スクリーンのクレジットの大きさなどを要求できる人ーになれました。 実際のところこれらすべてを頼めるようになったのです。 私が正しいと信じることを主張するのに恐ることがなくなったのです。

 「ナポレオン・ソロ」が私の心の中で特別な位置を占めるとすれば、映画「荒野の7人」で共演した人たちも特別です。2004年イギリスで「ハッスル」の撮影が始まった週にチャールズ・ブロンソンが亡くなったという知らせが入りました。私を7人の最後の生き残りとしてしまったのです。とて厳粛な瞬間でした。その日は涙を流しました。

Woman's Weekly2007.5) U.K.

BACK
HOME
HOME

*この写真のスカーフの巻き方が気に入っています。(eigomama)

BACK