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こんばんわ、今日は光栄なことにロバート・ヴォーン氏をゲストにお迎えしています。 彼のとても素晴らしいキャリアはポール・ニューマンとの共演「都会のジャングル」でオスカーに ノミネートされ、「ブリット」でスティーブ・マックイーンと共演したのが有名ですが、何百万人の人 たちにとっては、彼は、毎週テレビに登場した私たちの格好良いヒーロー、「マンクロムアンクル」 の秘密諜報員ナポレオン・ソロに他ならないのです。 |
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ここでアンクルの映像が挿入される。 「S−9を奪回せよ」より、 「アイオワで?」で終わる。 |
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MS:そう、アイオワでです。(笑) アンクルの話、映画の話、など彼のとても素晴らしい人生について書かれた自伝 「フォーチュネイトライフ」についてお話を聞きます。 ロバート・ヴォーンさん、お目にかかれて、とても光栄です。 何年もの間、TVで見てきたあなたにこうして直接お目にかかれるなんて、 RV:それはどうも御親切に。 |
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MS:まず、このビジネスの世界で成功することは驚くほど魅力的なことですが、 「アンクル」のように驚異的な成功を収めそれが、まだずっと語られているほどになるには 何がその成功に貢献していると思いますか? |
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RV:私には見当もつきませんね、もし分かっていたら、自分でプロデューサーになって もう一つ作っていたでしょうね。(笑) ともかく、それはジェームズ・ボンド映画がヒットしたことで作られたんですよ。 海外の視聴者も意識して作られました。この番組のプロデューサー、ノーマン・フェルトンは イアン・フレミングの友人でね、二人でTV番組のアイディアを練っていたんですよ。それはあとで 法律的な問題がおきるのですがね、それで、イアンが病気になって、しばらく放っておかれたのですが、 作ることになり、イアンが考えたソロと言う名前を主役の登場人物の名前として使うことに なったんです。 |
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RV:ともかく今日であればキャンセルされていたかもしれないのですが、1964年の9月に 放映がはじまり、本来ならそこまで持たなかったのでしょうけれど、大学生たちが休みで 寮から家にもどり、テレビを占拠しはじめ、口コミでアッと言う間に広がり、12月の視聴率 が突然64位からトップ20におどりでたんですよ。そして国内でも海外でも大ヒットとなって いったんです、とてもすごい勢いでね。 |
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MS:そのようなヒットになって、すぐに変化があなたに起きましたか? あなたはもうその時実力ののある俳優として知られていましたよね、オスカーにノミネート されるなどしていましたし。 それでも、視聴率が変わって、あなたの生活も変わりましたか? RV:変化という点では、翌年65年の春まではそれを意識することはありませんでしたね。 ニューヨークで、クリストファー・プランマーの「ロイヤルハンターザサン」を観に行ったときなんですがね、 友人たちがもう席についていて、その時は番組がはじまって5ケ月くらいたっていたのですが、 番組が流行ってるという噂は聞いていたのですよ、でもまだその証拠を見ていなかった、それで通路を 降りていくと、パラパラと拍手が聞こえたんですよ、振り返ると拍手が段々と増えてきて、そしてもっと 増えて、みんなが私を指さして、私の名前や役名で叫びだしたんです。それで、その時、何か大きな ことが起こりかけていると、実感したんです。 MS:あなたにとって、それは心地よいことでしたか? RV:ええ、そうですね。 それまで、私がロックンロールのスターのような十代のファンの対象になるとは考えても見たことが ありませんでした。でも、あまり驚きはしなかったです、ジェームズ・ボンド映画のTV版ですから ヒットするのに時間はかかりましたが、まあ、ヒットして当然かな、と。 |
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MS:TVシリーズでの仕事、、特にこういうアクションシーンが多いと、撮影は7日、8日間。。。 RV:当時は一週間6日間の撮影でしたね。 MS:6日間ですか、 RV:カメラマンのコニーキャンプ、彼はいくつもアカデミー賞に輝いているのですが、 彼は6週間毎に1週間は入院していましたね。胃のトラブルとかなにかでね。 MS:それだけ集中的な仕事だったんですね。 あなたも他の仕事をすることはできなかったのでしょうね。 閉じ込められていましたか? RV:そうですね、撮影にかかりっきりです。4年間で3日くらいしかオフはなかったように思います。 MS:それはすごいですね。さて休憩をはさみましょう。 そして映画界で一緒に仕事をした並はずれた方々の、さらにまた当時の政治的な企てに対して、 まだハリウッドの有名人がなにも言わないときに初めて公に発言して行動したという、いかに他の 人たちとは異なるかについてお話いただきます。 ロバート・ヴォーン、まだまだ続きます。 |
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ナポレオン・ソロ 第一シーズン 「箱舟号の反乱」が挿入される。 |
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MS:さあ、ロバート・ヴォーンとの話をつづけましょう。彼の自伝「フォーチュネイトライフ」 はハリウッドの古き良き時代の話、メガヒットの「ナポレオン・ソロ」の話の前と後の話など 興味深い素晴らしい本です。 何故、俳優になったのですか?血筋ですか? RV:ええ、そうですね、私の母は舞台女優でした。ドラキュラなどに出演し、ブロードウェーで活躍していました。 私の実父はニューヨークのラジオ俳優で、継父も俳優。母方の祖父母も俳優、さらにさかのぼると、曽祖父は19世紀のフランスで 俳優をしていたようです。ですから、そういう家系で運命づけられたと、でも言いましょうか。 |
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MS:初めて人の前で演じたのは? RV:人前で?それなら、子供のころですね。母が私にハムレットの「生きるべきか死ぬべきか。。」の独白を 教えてくれて、人が集まるところ、たとえば、独立記念日のお祝いなどの時に人前でやっていました。 MS:私がハムレットに出会い、理解できるようになったのは15歳ですよ。(笑) MS:初舞台はいつですか? RV:ええ、初舞台は12歳の時で、せりふは一行でした。「メイソンさんに電報です。」 公演が続くにつれ、ドンドン舞台の上に出ていったんです、本当はドアのところにいなくてはいけないのに(笑) (ここで、MSが手で話をとめているのが見える) |
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MS:西海岸へ移りました。何故ですか? RV:それは、またもうひとつの偶然の賜物でね、自伝にも書いていますが、私の継父がとても若くして なくなったんです。1951年のことです。母はカルフォルニアに「レグロ」というミュージカルの公演で 行ったことがあたので、移ることにしたんです。それで私のところへ来て、興味があれば一緒に行こうと誘ったんですよ。 私はとても古いですが車を持っていたので、1951年の夏に母をカルフォルニアまで連れていったんですよ。 私が一番覚えているのはUCLAのキャンパスの美しさでした。こんなに美しいものを今までに見たことがないと 思いましたよ。それで、私もカリフォルニアに住んでUCLAに行こうと思ったんです。心の奥底でそう思ったんです。 MS:普通の若者はそんなこと思いませんよ。(笑) |
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RV:私の取得した単位が適合しなくて、UCLAには入れなかったんですがね、その代わりにロサンゼルス市立大学に 行きました。当時1学期6ドルしかかからなくてね、 MS:じゃあ学生ローンは必要なかったのですね。 RV:いえ、教科書代35ドルのために必要でしたね。 RV:ですから、継父がなくならなければ、私が自分でカルフォルニアに行くことはなかったんです。 それまで行っていたミネソタ大学を出て、ニューヨークの舞台に出演していたでしょう。 MS:あなたはそれで、大学の時にまたほかの学生と違うことをしましたよね。 本を読んだところによると、学生として勉強している間に俳優として働けるように大学に要求しましたよね。 RV:ええ、学部長のところへ行って、自分はずっと舞台とかかわってきたので、学生として勉強している間もプロの俳優 として仕事ができるようにしてほしいと頼みました。 それで彼が許可してくれたおかげで、最終的に小劇団のステージソサイエティに入ることができたんです。 |
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MS:初めてのTVあるいは映画出演は? RV:初めてのTVでの役はリンカーンが撃たれた時に手当をした医者で、チャールズ・リ−オという中尉の役でした。 リンカーン役はお天気キャスターでね、彼も私も付髭をしていて、リハーサルの時に二人の髭がくっついてとれて しまったんですよ。 画面にはうつりませんでしたけどね。それがたまたま転がり込んだ最初の主役でしたね。 MS:スタジオシステムについてですが、あなたはほかのいろんな有名な俳優さんととても親しくなる機会をもてたと、 なかでもあなたのように後に伝説的なスターになる人たち、スターへの道を探し出そうとしていた若い役者さ んとたくさん知り合ったのですよね。 RV:ほとんどの場合私はとても良い仕事を提供してもらっていました。私が演技を教えているときには、 ジャック・ニコルソンが生徒でしたし、ウォーレン・ビューティーとも知り合いでした。ジョージ・ハミルトンとかね、 中西部、東海岸出身の若く役者を志す仲間がたくさんいて、たがいに励ましあいながら、 それぞれの道を探っていたんです。 |
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MS:初めての映画での役は? RV:初めての映画出演は「十戒」ですね。それを映画での役というのであればですが。 私はユダヤ人役に選ばれたんですよ、ユダヤ人らしくみせるために、腰巻をつけて体中に濃いスプレーを朝から かけられましてね。 でも私はアクターズギルド(俳優組合)のメンバーだったので、一日に100ドル貰えたんです。 そしたら、エージェントから電話があって、この仕事は彼がとったのではなく、友人のお陰だったのですが、 「俺がなんとか交渉して、ユダヤ人を追いかけるアラブ人の役をもらってやったよ」とね、それでもう1週間仕事ができた ので、10日間で1000ドルの収入になりました。その時アルバイトしていた メッセンジャーの仕事よりはるかに良いのでね、 やはり私には俳優の仕事が良いと思いましたよ。(笑)、 MS:おもしろいのは、同じ映画の中で自分を追いかけるアラブ人の役からすぐに、オスカー候補になってしまうんですよね。 この話は休憩のあとでまたしましょう。「フォーチュネートライフ、ロバート・ヴォーンをゲストに迎えています。」、 |
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MS:さあそれではまたロバート・ヴォーンの素晴らしい自伝「フォーチュネート・ライフ」の話を進めましょう。 MS:「都会のジャングル」でオスカー賞候補にノミネートされました。これはどのような経緯だったのですか? RV:ポールと私はビバリーヒルズヘルスクラブに入っていてね、実際にはビバリーヒルズにあったのではないんですが、 顔見知りではあったんですよ。 それで、エージェントから連絡があって、「フィラデルフィアン」脚本の段階では まだそういうタイトルであとで「ヤングフィラデルフィアン」に変わったのですけど、ともかくそれに出てほしいらしい、 ついてはテストを受 けるようにということだったんです。ポールが言ったのか、私が触れたのかは忘れましたが、 ポールがある日、「おい、君、台本よんだけと、君の役は映画の中で一番言い役だよ。朝鮮戦争に行って、どうのこうの」 って言うんです。私はまだ台本を読んでいなかったのですが、彼が「僕が君と一緒にテストしてあげるよ。」と言ってくれたんですよ。 「本当に?」と私は喜びましてね。 つまり、普通スクリーンテストは台本を読む女性がカメラの後ろの暗いところで、 棒読みで「あなたをとても愛しているわ、ずっと一緒に暮らしたいわ」みたいなことを言うんですよ。ともかく、 ポールが私と一緒にカメラをオンの状態でスクリーンテストをしてくれて、そうしたら、私のテストが終わったら、 もう他の人のテストをキャンセルして、私が役をもらったんですよ。 私にとっての初めてのA級映画で、そしてアカデミーにノミネートされたんです。 MS:それが分かったとき。あのどのようにしてわかったのですが、アカデミー賞にノミネートされたのを。 RV:いや〜、全然覚えてないですね、たぶん広報担当が夜中に電話してきたんじゃないかな MS:実際のところどんな気持ちでした?突然このような伝説的な賞の対象になって。 RV:あちらこちらで、プラス面もあり、そうじゃない面もいろいろありましたね。 |
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MS:あなたのキャリアが変わるだろうと思いましたか?実際にその結果変わったのですよね? RV:ええ、それで「荒野の7人」の役が来たことは間違いないですね。だから、「都会のジャングル」 でのアカデミーノミネーションとこの映画でジョン・スタージス監督に会う機会と伝説的なウエスタン 、(当時はそうなるとは思ってませんでしたが)に出演する機会を得たこととは関係がありますね。 MS:その映画制作はどのような感じでしたか? 今あなたは伝説的な映画とおっしゃりましたが、その時は普通のウエスタンだと思っていたのですよね。 RV:いえいえ、普通のウエスタンと思うどころか、失敗作になるのではないかと思っていましたよ。 まず、それは日本映画、黒沢明監督の「七人の侍」のリメイクだったんですよ、そして、さらにある決められた日時までに始めなくてはならない状況だったんですよ。そうでなければ撮影できないことになるのでね。 そして毎日撮影前夜に薄い紙に書いた台本がドアの下から差し込まれるという状態でね。とても良い映画を作る環境ではなかった。 MS:皆さんはその時はもう知り合いで仲が良かったのですか? RV:ジミー・コーバンは大学が一緒だったので、知り合いでした。スティーブとチャールズ・ブロンソンはTVと映画に出ていましたから、誰だかはわかりましたが、他の人たちは知りませんでしたね。 でも誰が「キング」かは知っていましたよ。「キング」は撮影中でもオフでもずっと「キング」でしたよ。 |
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MS:それはどんな感じでしたか? MS:彼は伝説通り「キング」的な性格なんですか? 私はユル・ブリナーのことについて言っているのですが、 RV:ええ、とてつもなくそうでしたね。 MS:その映画の撮影が終わった時に、自分がこれで変わるだろうと思いましたか? RV:いいえ、そんなことはなかったですね。 私たちほとんどが、A映画出演が初めてだったので、これがAだというのは、ユル・ブリナーがスターとして出演しているのでそう思ったのですけれど マックィーンがスターになるだろうという噂はあったのですけどね、ブレークするだろうという。彼は撮影中ユルと肩をならべようと、いろいろとやっていましたからね。 MS:彼はやはり言われているような性格だったのですか? RV:ええ、色んなことがありますが、ある自分の出演する人気TVシリーズの台本を読みながら、「このセリフはいらない、ここからこうやって取ってくれたらいい」といって台本をやぶってしまうんですよ。 私はしたことがないですけどね。 MS:彼は自分のセリフを自ら減らすという珍しい俳優だったのですか? RV:ええ、そうですね、彼はセリフが少ない方を好んでいましたね。 MS:自分の演技力を信じていたんですかね? RV:多分彼はこの世界に足を踏み入れた時から、自分のスターの資質を信じていたんだと思いますよ。 MS:スターの資質についてはまた後でお話しをしましょう。 |
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MS:この映画とアンクルまでどのくらいかかりましたか? RV:撮影が1959年で60年に封切され、アンクルが64年ですから4年ですね。 MS:当時まだTVと映画で大きな敷居があったとき、TVがまだ下に見られていた時、 あなたはTV界にとどまることになると思いましたか、それとも映画界に残っていたいと思いましたか? RV:私自身は映画界にとどまりたかったのですが、そのあとに続いてこなかったので、それでアンクルの台本を読んで、 「これはジェームズ・ボンドのTV版だから、やるべきだ」と思ったのですよ。 それに私は同じプロデューサー、ノーマン・フェルトンの別のTVシリーズ「ルーテナント」ゲーリー・ロックウッド主演の、にも出ていましたしね。 MS:ええ、私はそれを覚えていますよ。 RV:あなたはすごい記憶力をお持ちですね。(本当に驚いた様子で) |
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MS:私は子供のころTVを観過ぎというくらい見ていたんですよ。(笑) RV:ともかく、このシリーズをやろうと思いましたよ。 MS:そしてマッカラムが共演者で参加し、二人がとてもよく融合して、男同士の友情が軸になった。 そうですよね。 RV:そうですね。今日にいたるまで、そうです。 MS:人気絶頂の真っ最中に、あなたは学生だったのですよね。アンクルの時にすでに博士号の勉強をしていたのですか? RV:ええ、そうですね。60年代半ばは博士号に向けて勉強していましたね。 MS:何故そうしたいと思ったのですか? |
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RV:ええ、ゴルフを余暇にする人がいるでしょう、私にとってはそれがそうだったんですよ。 MS:それはあなたがずーとしたいと願望を持っていたことだったのですか? RV:いいえ、ただ、私は学校に行くのが好きだったんですよ。それで、反戦運動が始まった時に、 私も反対しなくてはとおもったんですがね、その時、たぶん心の奥底で、自分の名前の後ろに3文字(Ph,D)が加わると 信用性が高まるんではないかと思ったんじゃないですかね。もっとも、そうなるまでには時間がかかりましたけれどね。 MS:本当にそうですね、そしてウィリアム・バックレーをデベートで負かしたのも、すごかったですよね。 ここで、またお休みをします、ブレークのあとは私が言ったことをお見せしましょう。 |
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ファイアリングラインのビデオクリップが流れる WB:ケネディ、シュラシンジャー、ソレンセンのような高い位置にいる政治家たちが。。。 RV:私はシュラシンジャー氏、ソレンセン氏の意見には反対ですね。 WB:あなたがどれだけの人に異議を唱えるのかとても興味深くなってきました。 RV:ええ WB:しまいにはあなたはプラトーやアリストテレスにまで異議をとなえるのでは。。。 RV:ええ、そうですよ。それに関して論文を書きましたよ。実のところね。(笑) |
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MS:ロバート・ヴォーンの当時と今です。 保守派の父とみなされていたウィリアム・バックレー、昨年なくなられたのですが、彼と対戦したのですが、 公の場でに発言するという考えですが、あなたのエージェントやあなたのショービジネスに関わる人たち、そして番組のプロデューサー などは、バックレーが言っていたように、まだ75%のアメリカ人が戦争を指示している背景で、あのような発言を自分たち分たちノ「スターが して、「一体何をしてるんだ、 キャリアを台無しにする気か?」と思って見たのでははないでしょうか? そのリスクはもう計算済みでやったことですか? |
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RV:いいえ、全くそんなことは考えもしなかったですね。私はミネアポリスでスピーチをするように頼まれたんです。 1965年1月29日なんですけどね、その日は私も空いていたので受けたんです。 何が起きたかと言いますとね、私はジョンソンの選挙運動を盛り上げるためのスピーチをするのに招かれ、私は全く逆のことをした訳です。 まだその写真を持っていると思いますけど、テーブルについていた人立ちは、私が紹介されると、「いぇ?」みたいな感じで拍手をしいてね、 そして、スピーチの終わりには皆こんなふうに顔を被ってね MS:皆どうなることか、と思ったんでしょうね。 RV:私は別に何も悪いことは言ってないとおもったのですがね。 MS:何を話されたんですか? RV:本にも書きましたが、45分ほどの内容ですよ。 |
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MS:TVバージョンで短く教えてください。 RV:基本的にはここに招かれて嬉しいという事と、法律的に正しくなことが沢山あるので、それに基づた話です。 月曜日にスタジオに戻ると、弁護士の一団が私と話をしたくてやって来ました。私のスピーチを詠みたかったのですよ。 私だけが原稿を持っていましたからね、手書きなので、今もそうなんですけどね。 それで事務所でコピーを印刷して皆に渡したんです。その時には私は秘書を雇っていたので、彼女にさせたと思いますけどね。 MS:彼らはそれを読んだのですね。 RV:ええ、皆それを読んで、もうすでに戦争に反対する人たちが言っていることだし、何も悪いところは。 そして、番組のプロデューサーは学生時代、社会主義の活動家だったと言うことが分かってね。(笑) MS:後で分かったんですか(笑) RV:ともかく、何も影響はなかったです。全くね。、 |
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MS:それであなたはその一件は落ち着くとおもいましたか? RV:いいえ収まるどころか、私アメリカ全土あちこちからスピーチの依頼が殺到しましてね。問題になる可能性と言う点では すぐに静まったのですけれどね。 MS:あなたはその機会に飛びついたのですか? デセンダントデモクラッツがあなたと話をしたがったのでしょう? RV:ええ、私はそれを絶好の機会だと思って、飛びつきましたね。なぜなら、私は自分の主張をとても強く信じていましたし、 私の露出につれて、様々な人からデベートの打診がありましたよ、ジョンソン内閣からもデベートの打診がありましたよ。 私は誰とでも喜んで誰とでもディベートするつもりでしたよ。 MS:それらオファーは実現したのですか? RV:いいえ、ひとつも実現しませんでしたよ。ウィリアム・バックレーを除いてね。 |
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RV:彼の方からコンタクトがあって、コン」スティトゥーションホールでこの件についてディベートをしたいと言ってきたんです。 それはどちらかが都合が悪くて流れて、そして日を改めてハリウッドの小さなスタジオでたしか1967年7月に行うことになったんですよ。 その時点ではほとんどのアメリカ人は戦争対しては、賛同していたんですよ。 そして、その年はこの番組の1年目でね、彼は弁護士を連れてきて、ディベーターの間に入って仲介し、最後にどちらが優勢であったかを判断させていたんです。 でも、その日は彼は、「アヒルと鷹の対戦は、今日はどちらの羽がより羽ばたいたのかを私にはきめられません。 |
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MS:バックレーのその時の表情はどうでした?驚いてましたか? RV:実は彼の顔はみていないんですよ。(笑) 観客の中にいた私の友人が、言うには、ちょうどその前にフルブライトが書いた「権力のおごり」と言うのがあって、彼はそれを用いて、 「ヴォーンがその尊大さで圧倒した」と言ってくれました。 MSあなたが取り上げて、その本は脚光をあびましたね。えーとどのようにしてこのディベートの準備をしたのですか? |
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